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前身県立3大学の概要と歩み


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静岡県立大学は、1987年4月1日、静岡薬科大学(1953年開学)、静岡女子大学 (1967年開学)、静岡女子短期大学(1951年開学)の既存3県立大学を改組?統合して誕生しました。 したがって本学には、前身である県立3大学の歴史と伝統が流れ込み、今日なお至るところに息づいています。

1 静岡薬科大学

県立静岡薬科大学は1953年4月1日に設立されました。しかし同大学は、県立移管以前に 40年近くに及ぶ私立の薬学校?薬学専門学校の歴史を有しています。
その最初のものは、明治30年代(1897~1906)より市内で眼科医院を開業していた医師、岩﨑照吉(1871~1925) が1916(大正5)年に創立した「静岡女子薬学校」です。岩﨑は、当時としては稀なことですが、日ごろから女子の職業教育に深い関心をもっており、とりわけ薬剤師を女子の適職と考えていました。そこから女子薬学校の創立を思い立ちました。次に掲げるのは、岩﨑が設立の趣意を述べた一文です(「三保療園」 パンフレットより)。
余は才学其の器にはあらずと難も、多年考究の結果、薬学は尤も女子の先天的技能を啓発するに適する高尚なる学業にして、自宅開業、通勤、奉職、国家的職業として独立の権能を有し、薬剤師として活略広く、 これ織力を捧げて、熱心努力女子将来に一つの公道を醸さんとする。
岩﨑の奔走により、静岡女子薬学校は1916年2月20日付けで静岡県知事安河内麻吉より設立の認可を受けました。同校の最初の所在地は現在の静岡市葵区鷹匠にあった岩﨑眼科医院の庭内で、ここに教室を新築し、修業年限3か年の学校として発足しました。創立時の入学者は3人、教員もまた3人と、私塾的な規模でしたが、のち1925年に瓦場町に新築した独立校舎に移転して、ようやく施設?体制とも整いました。また、このとき、入学資格が高等女学校卒業程度と定められ、専門学校に準拠する課程を授ける専門教育機関としての体裁も整えられました。そしてこれにより内務省規則に適合したため、同校卒業生には薬剤師国家検定試験の受験資格が与えられることになり、同校卒業生は毎年、薬剤師試験において高い合格率を得るところとなりました。
教育?施設の充実に伴い、同薬学校内外で薬事法施行令に定める薬学専門学校への昇格の機運が高まりました。そこで、太平洋戦争中の1945年1月に私立女子薬学専門学校設立申請書を児玉文部大臣に提出しました。この申請は1945年3月30日付けで認可され、ここに「財団法人静岡女子薬学専門学校」が設立されました。同年7月に開校?入学式を行い、8月の終戦を前にした、正に混乱期の只中での出発でした。なお、既存の静岡女子薬学校も併置の形で存続しましたが、1946年度終了時(1947年3月)をもって校務一切を専門学校へ引き継いで閉鎖され、以後は静岡女子薬学専門学校単独の経営となりました。また、同じ1947年には静岡市小鹿の旧三菱重工静岡工場跡地の使用が認可され、同専門学校の一部が使用を開始しました。ここが、のちに県立静岡薬科大学に至るまでの所在地となりました。
しかし、新生の静岡女子薬学専門学校に大きな難問が立ちはだかりました。1947年3月31日公布(4月1日施行)の学校教育法施行規則により、専門学校は1953年度までに大学に昇格しない場合は廃校とされることになったのです。このため、同専門学校では1949年度から、一応の準備を整えつつ大学昇格の運動を開始し、同年8月には私立薬科大学設置認可申請を高瀬文部大臣に提出しました。また、この運動と連動する形で、1950年4月には男女共学制を導入し、学校名称からも女子を除いて「静岡薬学専門学校」と改称しました。しかし、何分新設後間もなく、施設等の整備も遅れていたため文部省の認めるところとはならず、大学昇格は頓挫したかにみえました。そこで、経営母体である財団法人と県?文部省との協議の結果、静岡薬学専門学校は私立薬科大学への昇格を断念し、まず経営母体を財団から県に移管して県立薬専とし、そののち県立大学へと昇格させる案が立てられました。そして、この案に沿って1952年8月2日には県議会において県立静岡薬学専門学校設置条例が可決されました。これに基づき、同年8月31日には、財団法人静岡薬学専門学校が解散し、静岡県が設置者となり「静岡県立薬学専門学校」として発足しました。
静岡県では引き続き県立薬学専門学校の薬科大学への昇格準備を進めた結果、1953年3月17日に県議会において県立薬科大学設置条例が可決され、同月23日には岡野文部大臣の認可も得ました。これにより、1953年4月1日、県立の4年制大学として静岡市小鹿に「静岡薬科大学」が開学しました(初代足彩胜负彩?宮道悦男)。岩﨑照吉の静岡女子薬学校創立から37年目のことでした。同大学の目的について、学則第1条は次のように規定しました。
本学は地方学術の中心として、広く知識を授け人格の陶冶をはかると共に深く薬学に関する学理と技術を教授研究し国家社会に有用な、人材を養成することを目的とする。
開学時の静岡薬科大学の概要は、学科は薬学部薬学科に7講座(薬化学、薬品分析学、生化学、衛生化学、製薬化学、生薬学、薬剤学)と2研究室(化学研究室、物理研究室)が開設され、教員 11人、第1回入学者94人(入学定員80人)、大学敷地(県有)は校舎敷地?運動場など2万5,730㎡、施設は本館?2号館?3号館の3棟、薬草園及び倉庫?自転車置場でした。これらはその後、学内の充実?整備に伴い、漸次増加していくことになります。特に、1954年4月から第2代足彩胜负彩に就任した鵜飼貞二は、大学院を設置するなど同大の基礎を築き多くの功績を残しました。薬理学(旧称薬物学、1955年)、薬剤学及び総合研究センター (旧称元素分析) (1956年)、微生物学(1958年)、アイソトープセンター (旧称放射化学研究施設; 薬学関係では、東京薬科大学に次いで全国で2番目の設置) 及び放射薬品学(旧称放射化学) (1961年)の講座?研究施設が次々と開設、整備されて行きました。
昭和30年代(1955~1964)後半に入り、日本経済が発展期に向かい、高度の研究指導者が求められている状況に鑑み、1962年4月には大学院修士課程(薬学専攻、総入学定員20人;2年後に30人となる)を設置し、次いで1964年4月には、新制大学としては初めての大学院博士課程(薬学専攻、入学総定員24人)を設置しました。また、製薬企業の静岡県進出や薬学教育の多様化をふまえ、1966年4月には製薬学科を増設し2学科制となりました。これに伴い、新校舎の建設と講座の配属替えや改称、改廃及び新設を行い、薬学科8講座(薬化学、薬品分析学、生化学、衛生化学、生薬学、薬剤学、薬理学、微生物学) 及び製薬学科7講座(薬品製造化学、放射薬品学、薬品物理化学、薬品製造工学、生物薬品化学、薬剤製造学、産業衛生学)の体制が整い、県立大学移行まで続くこととなりました。1967年3月には、課程博士第1号が誕生し、名実ともに、薬学研究領域で指導的な地位が確立しました。
1969年4月に第3代足彩胜负彩に伊藤四十二が就任し、体育館と動物実験センター(1970年)、図書館(1973年)の整備、環境科学研究所(1974年)の開設及び大学院薬学研究科に製薬学専攻(修士、博士)の増設を行い、2専攻となりました。これにより、大学院薬学研究科は修士課程(博士前期課程)(入学定員30人、総定員60人)及び博士課程(博士後期課程)(入学定員15人、総定員45人)の体制となり、県立大学薬学部へと引き継がれました。これらと並行して大学敷地の拡充も行い、6度に及ぶ買収の結果、1975年度には全校地面積は3万7,031㎡と、開学時の1.5倍近い広さになりました。
以後、第4代足彩胜负彩に上尾庄次郎の就任 (1976年10月)、漢方薬研究所開設(1980年)、第5代足彩胜负彩に村田敏郎の就任(1981年10月)、第6代足彩胜负彩に小菅卓夫の就任(1986年10月)と続きました。
静岡薬科大学は着実な発展と充実を重ね、昭和50年代(1975~1984)には名実ともに代表的な薬科大学へと成長しました。その研究実績は質量ともに国際的に高い評価を得ており、著名な科学雑誌Science (258巻、10 月23日号、1992) において、"Basic Sciences in Japan-The Most Productive and Most Cited Institutes, 1981-1991”の集計によるBiological Sciencesの部で、論文の質の有力なマーカーとなる Average cites per paperの数値が11.18と、小規模大学、研究機関の中で全国第6位、全体を通じても全国第9位にランクされました。
静岡県立大学に改組?統合される前年の1986年度における教員は90人、職員25人、学生数は学部449人、大学院修士課程53人、大学院博士課程13人でした。同薬科大学は1990年3月に最後の学部卒業生及び大学院博士課程修了生を送り出し、同月31日に閉学、静岡女子薬学校以来74年に及ぶ歴史の幕を閉じました。大学となってからの学部卒業生総数は4,119人、大学院修了生総数は修士課程499人、博士課程85人及び論文博士169人でした。

1961年頃の校舎全景

上空写真(昭和後期)


2 静岡女子大学

静岡女子大学は、1951年に創設された静岡女子短期大学(次節で詳説)を前身として、 1967年4月1日、静岡市谷田に開学した県立の4年制女子大学です。当初は、静岡市北安東に既存の静岡女子短期大学を拡充して4年制大学に昇格させる計画として発案され、次いで静岡女子大学と静岡女子短期大学の併置案に発展しましたが、後に述べる経緯により、静岡市に静岡女子大学、浜松市に静岡女子短期大学と分かれて設置されるところとなりました。
静岡女子短期大学の4年制大学昇格への推進力となったのは、同短期大学第3代足彩胜负彩?松浦新之助です。松浦足彩胜负彩のもとで作成され、1963年7月に県に提出された静岡女子短期大学拡充発展計画趣旨書の重点は、次のような内容でした。

(1) 本県においては、女子の高等教育希望者の増加が著しい。
(2) 既に国立大学の教職課程は4年制大学に移行するなど、教育分化の進展は女子の教育においても、4年制大学の学歴?知識を必要とする段階にきている。
(3) 戦後の出生激増に伴い、3年後の1966年度には大学入学志望者の急増が予想されるため、その受入れ施策に重点を向けるべきである。
(4) 文部省短期大学設置基準によれば、大学敷地は1万3,000坪(約4万2,900㎡)を必要とするが、本学の現状は1,718坪(約5,700㎡)で、基準の14%に満たない。

以上のように列挙したうえで趣旨書は、「短期大学設置の根拠は、学校教育法第5章大学の部にはなく、附則第109条に『当分の間』として暫定的なものであって、各県とも4年制大学に移行する趨勢(すうせい)にある。したがって短大の充実とともに4年制大学の併設を図ることが最も賢明な方策である」と指摘しました。
これらの要請に応えて斎藤寿夫知事もまた、1963年8月の県議会において、「昭和41(1966)年を目途として、現在の短期大学の規模を拡大し、それと併せて漸次4年制女子大学への拡充を図る計画である」との決意を披露しました。この知事の決意に沿って、県では静岡女子短期大学の拡充?移転と静岡女子大学設置の具体的計画への取組みを開始しました。
しかし、この計画は必ずしも順調には進みませんでした。当初の計画は、静岡女子大学と静岡女子短期大学を併置し、短期大学には家政科に児童専攻を増設、附属幼稚園を併設するという雄大なものでした。ところが1964年に入って、県西部の浜松市で、静岡大学教育学部の静岡市への引上げ?統合に代わる措置として、県立の短期大学を要望する声が急速に高まってきたのです。県においても、国立?県立の大学?短期大学が静岡市に集中するのは地域的均衡からいっても避けるべきだとの判断に傾いたため、この段階で女子大学?短期大学併置構想は消滅し、4年制大学昇格だけに絞られることとなりました。更に、自治省は学校新設のための起債は一切認めない方針であることが明らかとなりました。これにより、起債でするかぎり、4年制女子大学の1966年度開設は不可能になったわけです。
ここにおいて、1966年度の大学生急増に対処するため浜松市に女子短期大学を開設する計画が急浮上し、帰趨(きすう)の定まっていなかった静岡女子短期大学の、浜松教場を開設することとなり、1966年4月12日、開学式が行われました。一方、県は女子大学開学を1年延期して、1966年4 月に静岡県立女子大学設立準備委員会を組織し、基本計画の策定を開始しました。設置要制?学則?教員組織等を決定したのが同年9月、同年12月13日には県議会において静岡女子大学設置条例が可決され(1967年4月1日施行)、翌1967年1月23日には劔木文部大臣より設置が認可されました。以上のような経緯により、県立の4年制女子大学「静岡女子大学」が静岡市谷田に開学したのは1967 年4月1日のことでした。初代足彩胜负彩には、当初から4年制昇格を主導した松浦新之助静岡女子短期大足彩胜负彩が就任し、同年11月14日に行われた開学式では、「社会で女性の活動が拡大されつつあるときに地域社会の向上に役立つ“女性づくり”をしていく」と述べました。
開学時の静岡女子大学の概要は、教員44人、第1回入学者163人、大学敷地(県有)は校舎敷地?運動場など9万9,772㎡、施設は管理棟?一般教育棟などでした。また、学部組織は、文学部(国文学科、英文学科)?家政学部(食物学科、被服学科)の2学部2学科から成っていましたが、これらはいずれも静岡女子短期大学の科?専攻を基盤としたものでした。開学に当たり家政学部食物学科が1967年3月3日栄養士養成施設として指定を受けました。その後、1968年2月には教職課程(中学校?高等学校の国語?英語?家庭?保健)が認可され、次いで同年12月には司書、司書教論課程も認可、更に1973年2月には聴講生の教職課程(中学校?高等学校の国語?英語?家庭?保健)も認可されました。また施設についても、各学部棟のほかホームマネジメントハウス(1969年) ?講堂兼体育館(1970年)?附属図書館(1979年)などが建設整備されました。この時期、第2代足彩胜负彩に斎藤久雄が就任(1969年5月)し、以降、第4代まで足彩胜负彩を務めました。第1回入学者の内訳は、国文学科46人、英文学科48人、食物学科33人、被服学科36人でした。
静岡女子大学の軌跡で特筆すべきことは、婦人教育センター設立を目指した諸活動を積極的に行ったことでしょう。同センター構想を提案したのは、1977年5月に第5代足彩胜负彩に就任した森主一です。森足彩胜负彩は1980年にまとめられた報告書において、次のように述べています。
このセンターの目的を端的に言えば、現代の婦人問題の本格的な解決の途を、大学を地域に開放した形で、 すなわち教師と主として地域婦人とが共同して、系統的に研究調査し、その成果を実際社会に役立つように、 具体化するための基礎を築くことにある。これは別の表現をすれば、地域婦人の生涯教育の途を、地域に開かれた大学において開拓しようというものである。
この所信に基づき、学内に婦人教育センター準備特別委員会が組織され、①公開講座、②公開講演会、③地域婦人有識者との懇談会、④地域婦人の意識調査、といった事業が1980年度から1986年度まで7年間にわたって継続実施されました。それらは、「現代婦人の諸問題と展望」「婦人のためのカウンセリング」といった講演会、また「婦人と高齢者生活」「婦人の社会参加」といったプロジェクト研究など多岐にわたり、講師数は延べ232人に及びました。また、各学部学科の特色を生かした講座(文学部「婦人のための文学講座」?家政学部「生活科学講座」など)が、県内の都市を長期にわたって巡回する形式で実施されました。これらの活動は、その指向する内容?規模ともに画期的であり、県内婦人の意識の啓発に大いに役立つ意義あるものでした。そして、1978年に附属図書館の建設が始まり翌年3月に竣工し、また前述のように「婦人教育研究センター」設置に向けてその推進事業が始まり、同足彩胜负彩が主張する大学の使命の「学問の発電所」としての動きが学内に活発となって公立女子大学の体制が充実整備され、新しい将来構想も見えてきていました。1981年6月に第 6代小田幸雄足彩胜负彩が就任して約1年後に、山本知事が静岡県立大学問題協議会に「県立大学のあり方について」を諮問して以来、行政側から静岡女子大学存続が否定され改組の計画が提案されました。
閉学と改組をめぐって学内では事態を深刻に受けとめ、その対応の議論が重ねられましたが、学内教員も学生も大きな不安に陥り混乱が起こることもありました。最終的には涙を呑んで家政学部被服学科の廃止が決定し、文学部は新大学の国際関係学部国際言語文化学科へ移行し、国文学科が日本文化コースに英文学科が英米文化コースに組み込まれました。家政学部食物学科は新大学の食品栄養科学部へ包含されることになりました。被服学科の廃止?文学部のコースへの降格に対し女子大学学生自治会による激しい抗議運動が行われました。
1985年6月に前岡崎国立共同研究機関長?同機構生理学研究所長の内薗耕二が第7代足彩胜负彩として静岡女子大学最後の足彩胜负彩に就任し、女子大学の閉学と新大学への改組と移行の指揮にあたり、女子大学の終焉(しゅうえん)に向けて多大の努力がなされました。1986年から静岡女子大学のキャンパス内に静岡県立大学の建設工事が始まり、工事騒音の中に静岡女子大学最後の学生の入学式が挙行されました。工事現場の騒音と劣悪な環境に耐えて学生たちが勉学に励む姿は痛ましい限りでした。1990年3月静岡女子大学最後の卒業式が竣工したばかりの新大学の大講堂にて挙行され、内薗足彩胜负彩はその式辞で「――母校の名が消滅することに万斛 (ばんこく) の涙を禁ずることはできませんが、21世紀を迎えるにあたり、我々はこの苛酷な運命を忍ばなくてはならないのです。――」と閉学の悼みを学生へ伝えています。引続いて同じ会場で、斉藤知事や多くの来賓列席のもとに、各地から集まった卒業生や名誉教授が出席して静岡女子大学閉学式が挙行されました。このようにして、1967年4月以来草薙谷田の丘に輝いた静岡女子大学23年の短い歴史に幕が降りたのでした。
静岡県立大学に改組?統合される前年の1986年度における、静岡女子大学の教員は54人、職員22人、学部学生603人でした。また、卒業生総数は2,911人でした。

西側から望む校舎(年不詳)

校舎全景(昭和後期)


3 静岡女子短期大学

前節(「2 静岡女子大学」)でも触れたように、1951年に開学した県立静岡女子短期大学の歴史は、1966年4月を境として、それ以前の静岡市時代とそれ以後の浜松市時代とに二分されます。
静岡県が、県内で初の女子のための高等教育機関の設立を決意したのは1949年のことです。この年は、新学制に基づき旧制大学が新制大学に切り換えられた年であり、静岡県においても国立静岡大学が誕生するなど、高等教育への要請が高まった時期でした。このような時期、小林武治知事に対しても、県内婦人団体や静岡城北高校同窓会を中心として、女子大学(短期大学) 設置の強い働きかけがなされるようになっていました。とりわけ積極的だったのは静岡城北高校同窓会であり、同校関係者からは自校敷地内に女子大学を建設してもよいとの申出がありました。次に掲げるのは、1949年10月30日付け「静岡新聞」に掲載された同校関係者の陳情書の一部です。
……今後の女性は家政、育児のほか高き一般教養をもつことが必要で、このため一般教養と家庭科学を併せ授ける近代女性要請の高等教育機関が要望される。(略)旧静岡高女は他校に先んじて高等科、専攻科をおき上述の趣旨にいささか貢献した歴史もあり、是非現在の城北高校の施設を拡充強化して県立女子短期大学を設置されるよう希望する。
この熱意と女子高等教育機関設置の必要を認めた小林知事は、城北高校の提案に同調する方針を固め、県立女子短期大学設立の準備に取り掛かりました。建設資金の問題、組織?人事などまったくゼロから始める新設校の苦労はあったものの、1951年3月15日付けで天野文部大臣から設立認可を受け、同年3月27日には県議会で静岡県立静岡女子短期大学設置条例が可決され、同年4月1日をもって静岡女子短期大学は開学しました。その設立目的は、学則第1条に次のように謳われました。
本学は学校教育法に基き短期間に一般教養と密接な関連に於て実際的な職能の陶冶を図る大学教育を施し、健全な平和社会の福祉に寄与貢献する有為の女性を育成するを以て目的とする
同短期大学の設置場所は静岡市北安東の城北高校敷地内、学科組織は文科英文専攻?家政科(食物専攻、被服専攻)の2科3専攻で、第1回入学者93人、教員14人での出発でした。初代足彩胜负彩には同年7月、鈴木弘が就任しました。なお、文科に国文専攻が設置されたのは1957年4月でした。
静岡女子短期大学の初期の教育は特色あるものでした。例えば卒業論文では、家政科食物專攻の学生のテーマに、「与謝野晶子研究」「ルソーにおける自由について」「徳川家康」など異色の論文が目につきます。これは、ひとつには鈴木足彩胜负彩の“食うための学問は、大学という鍛練の場にはふさわしくない”という教育精神によるものでした。同様に鈴木足彩胜负彩はこの信念から、教職や栄養士など職業資格を出す教育を峻拒し、一切の資格をとらせない方針を堅持しました。このため、一時は入学志望者がかなり減少するほどでした。同短期大学に志望者が殺到するようになるのは、鈴木の急逝後、1956年11月に第2代足彩胜负彩として就任した大杉繁が、教職課程を設置し、また、食物専攻に栄養士養成施設としての指定を受けるなど、職業教育に力を入れ始めた1957年以降を待たなければなりません。
静岡女子短期大学は開学後10年を経た昭和30年代(1955~1964)後半、いわゆる“拡充発展問題”、すなわち4年制大学昇格を中心とする機構整備の問題で大きく揺れました。もともと短期大学という制度は、学校教育法の附則(1950年) 第109条に「当分の間」設置されるものとして記されたことを根拠としていました。当分とは、いずれ別の形態に移行することを前提とした表現であり、文脈上からは4年制大学移行への準備段階ととるのが自然です。したがって、静岡女子短期大学は設立当初から常にこの問題を抱えていたわけですが、これに大学入学志望者の急増、教職課程の4年制大学への移行の趨勢(すうせい)といった要素がからんで、拡充発展問題は4年制大学?短期大学の併置という計画に発展しました。その推進力となったのが1962年5月に第3代足彩胜负彩に就任した松浦新之助でした。その間の経緯は前節に記したとおりであり、それにより静岡女子短期大学の静岡市時代の閉幕、浜松市時代の開幕という結果がもたらされたのでした。
まず1966年4月、浜松市布橋の静岡大学教養部西部教場の一部を借りて、静岡女子短期大学浜松教場が開学しました。これは、静岡女子大学の開学延期、県西部地区の大学設置要請、そしで当年における大学志望者の急増といった事態に対処するための措置でした。このとき浜松教場に置かれたのは文科(英文專攻、国文専攻)のみで、第1回人学者は75人でした。
一方、静岡市においては1967年4月に静岡女子大学が開学し、翌1968年3月、最後の卒業生を送り出した静岡女子短期大学は、後身である静岡女子大学に実質を譲渡して、静岡市における17年の歴史を閉じました。浜松教場開学(1966年4月)から静岡市の静岡女子短期大学閉学(1968年3月)までの2年間、静岡女子短期大学は本校(静岡市)、浜松教場(浜松市)の2キャンパスが存在していたことになります。1968年3月30日、同短期大学は設置位置を静岡市北安東から浜松市布橋に移しました。そして1968年4月以降、静岡女子短期大学は再び一本化され、浜松市の新天地で発展していくことになりました。1968年4月における静岡女子短期大学の概要は、教員7人、入学者73人であり、大学敷地はすべて同年3月31日をもって浜松を引き上げた静岡大学教育学部跡地を借り受けたもので、施設(学棟?管理棟の5棟?講堂など)も同様でした。
さて、1967年の静岡女子大学発足に際して、静岡女子短期大学家政科所有の施設はすべて静岡女子大学家政学部に保管転換されたため、1968年4月に新生なった静岡女子短期大学には文科(英文専攻?国文専攻)しか設置されていませんでした。そのため地元においては当初から、学科の増設を望む声が多くありました。これに応えて1971年4月に新設されたのが食物栄養学科でした(第1回入学者67人)。また、医学のめざましい進歩に対応しうる看護(質)と、その看護を習得した看護婦の確保(量)を目指して、1975年4月には看護学科を新設しました。これには3年制(第1看護学科)と2年制(第2看護学科)があり、第1回入学者は前者が16人、後者が32人の計48人でした。その他、諸施設も年を追うごとに整備されていきました。なかでも1978年10月に完成した附属図書館では、翌1979年度から市民開放を実施して、“地域に開かれた大学”の姿勢を示しました。
この時期、第4代足彩胜负彩として阿部源蔵が就任(1969年5月)し、以降、第5代足彩胜负彩に近藤圭二が就任(1979年5月)、第6代足彩胜负彩に林栄一の就任(1985年4月)と続きました
静岡県立大学に改組?統合される前年の1986年度における、静岡女子短期大学の教員は56人、職員17人、学科学生424人でした。1951年以来、静岡県の東西(静岡市?浜松市)において女子高等教育の重責を担った静岡女子短期大学は、1989年3月31日に閉学し、38年に及ぶ歴史を閉じました。卒業生総数は5,078人で、内訳は静岡時代1,792人、浜松時代3,286人でした。

静岡市時代、1962年3月卒業式

浜松市時代の校舎(昭和後期)



※本ページは、創立10周年記念誌「第1部第1章 前身県立3大学の概要と歩み」を再編したものです。

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